リフォーム・リノベーション専門雑誌「プランドゥリフォーム」に掲載中のコラムのウェブ版です。
北海道の玄関口、新千歳空港は、年中無休の北海道物産展。定番のお土産の菓子類はもちろん、海産物や農作物も盛りだくさん。全道から名物が集まってくる、マルシェであり見本市だ。
アスパラガスもあれば、山ワサビや行者ニンニクまで売っていて、じゃがいもやメロンなどは、本格派の青果店並の品種が並んでいる。
道産ワインに地酒、地ビールにご当地サイダー…と、飲み物も充実。観光客はもちろん、道産子も目移りするくらいの品揃えに、財布のヒモも緩んでしまう場所なのだ。
東京に住んでいたころは、空港に着いたその足で、佐藤水産の空弁や、かま栄のパンロールを買って、快速エアポートの中で食べるのがルーティーン。
いまはもう空港内では買うことができなくなった佐藤水産の大きな海鮮おにぎりにハマっていたのだ。
なかでも、手まり筋子とあきあじが好きだった。いまでも札幌駅まで出かけると、駅前の店舗で買いたくなるほどのファンなのだが、これはわたしの育った環境が影響している。
というのも、わたしの子ども時代、イカの塩辛とともに、筋子やタラコはご飯のお供の代表格だった。なかでも筋子はもっとも大好きなおかずであり、断トツぶっちぎりのおにぎりの具ナンバーワンだった。
朝食の定番といえば、塩ザケもはずせない。ちょっとしょっぱいくらいで、うまみがたっぷりの山漬けのサケ。ハラスに塩が浮いていて、身がポロッととれるサケだ。
佐藤水産のあきあじは、その当時の味が見事に再現されていて、美味しくて、懐かしくて、たまらなかった。
北海道でも最近はあまりお目にかかれないが、東京ではまず食べられない味だけに、「やめられない、とまらない」の状態だったのである。
思い起こせば、それはふるさとの味であり、お袋の味だった。
母は市場で買ってきた筋子を粒が潰れないように、手でちぎって、小分けにした。すぐにタッパーに詰めて冷蔵庫へ入れるのだが、この動作を見ているだけで、食欲が全開になった。
外で遊んで帰ってきた日は、お腹がペコペコ。わたしはいつも「腹減った。ご飯まだ〜」とせがんだ。
しかし、父が帰るまでは夕食にならず、母に怒られながらも、冷蔵庫にしまってある筋子を出して、電子ジャー(炊飯ジャーではない)から、ご飯を半膳ばかり茶わんによそって、つまみ食いをした。
塩ザケと筋子があったら、ご飯を二回はお替りできた。お味噌汁や惣菜、朝食の定番、納豆さえもいらない。ご飯とサケや筋子だけあればよかった。
少しばかり料理を覚えると、休日には自分でおにぎりを作った。
もちろん、具はサケと筋子。他のものを作ろうという発想がなかった。
遠足や運動会のお弁当も、サケと筋子のおにぎりが主役。そこにローストチキン(レッグ)やサラミやポテトサラダが加わるという、「肴か!」「大人の花見か?」というようなメニューが、我が家のお弁当の定番だった。
一応、母はトマトやアスパラガスのような野菜を入れてくれてはいたけれど、気分としては「仕方ないなあ。食べるかあ」である。
いま思うと、裕福とはいえない家でも、塩ザケと筋子だけは不自由がなく食べさせてくれた親に感謝だが、あの時代の北海道で生まれ育ったことにも感謝せざるを得ない。
わたしの子ども時代と比べると、いまはとても豊かになった。スマホどころか固定電話も家にはなく、テレビも白黒の時代に生まれたけれど、いまはできない様々な経験ができた、面白い時代に育ったのではないかと思う。
家でも学校でも石炭ストーブを体験した。お風呂を薪で焚いていたので、ナタでまき割りをした。ストーブで芋を焼き、ストーブにかけた鍋のなかに牛乳ビンをお燗するように入れて、あたためて飲んだり、煙突やストーブで干しいもを温めたり、コマイをあぶったり…いまはとても懐かしく思う。
エアコンやファンヒーターではできない体験をしたことは、とてもいい思い出になっているし、わたしのような物書きには、生活の糧にもなってくれている。
バスのなかには、女性の車掌さんがいて、切符を切ってくれたり、優しく声をかけてくれたこと。空き地がまだたくさんあって、子どもたちが自由に遊べたこと。いまの時代にはない楽しみがあった。
日常の生活だけが楽しかったわけではない。非日常の代表である旅行でも、
いまはない趣があった。
たとえば急行列車というものがあったのも、楽しい記憶だ。快速でも特急でもなく、急行。比較的安い急行料金の旅は、有る意味とてもしんどかった。
観光シーズンの自由席はあっという間に埋まってしまい、座れないのだ。
そんなとき、いまでは考えられないが、多くの人は通路に新聞紙を敷いて座った。そりゃあもう大騒ぎだ。
そして主要駅につくと、駅弁を買うために立ち上がるから、仕方なくみんな立ち上がり、ついつられて、駅弁やお茶を買いに行く……。
もちろん、我が家は母がおにぎりを握ってきているので、買うのはお茶やみかんくらい。新聞紙の上に座って、プラスチックに入ったちょっと臭いお茶をすすりながら、筋子やサケのおにぎりを食べる。
そんなとき、プ〜ンとカツオ出汁の香りが漂ってくると、「いいなあ、そば食べたかった〜」となる。
筋子のおにぎりに満足しているくせに、あの匂いにはまいるのだ。
実際に食べると、「やっぱり筋子のおにぎりの方がいいや」となるのはわかっているのだけれど、匂いというのは罪なものだ。
バスや地下鉄に乗っている人が 、熱々のザンギを持ち帰るときにいい匂いを振りまき、「うまそ〜」「腹減った〜」となるのと同じなのである。
列車の車両も、いまとはかなり違った。立ち売りがある駅では、窓を開けて駅弁を買うことができた。つまり、窓が開いたのだ。
窓の下には小さなテーブルがあり、その下には、栓抜きがついてあった。いまではお茶まで缶やペットボトルに入って、自動販売機で売られているけれど、当時は自販機もビンだけ。売店でコーラの180㏄ボトルを買って、自分で栓を抜いた。
慣れないのと、列車の揺れで、栓が抜けた瞬間に、炭酸のアワでコーラがあふれ出て、「わや」になる人が続出。お母さんたちの、「なにやってんの!」という声がよく聞こえたものだ。
座席に座れた人も、新聞紙の上に座っている人も、近くの人にはお菓子をおすそ分けしたり、みかんを配ったり。ワイワイと喋りながら過ごす。これが昭和の旅だった。
そう考えると、いまの鉄道旅は、どことなくマンション暮らしのような、ご近所付き合いしない旅になったような気がする。自由で気楽でいいけれど、時には、昭和の急行旅のような心があたたまる旅がしたくなるのは、昭和の人間だからだろうか。
昨年、シューパロ湖の近くにある大夕張鉄道の南大夕張駅に行った。1987(昭和62)年に廃止された駅だ。現在は、残されたホームにラッセル車と客車が保存されていて、中に入れる客車が春から秋にかけて公開されている。昔懐かしい座席に、通路。中高年なら、様々な記憶が蘇るはずだ。
この車両は、三菱大夕張鉄道保存会のボランティアの方々が修復、整備して保存。雪かきまでして管理している。有り難いことである。
古民家同様、昭和の暮らしを感じられる車両は、北海道の宝。廃線が進んでも、駅舎や車両は残しておきたい。道産子のフロンティアスピリッツを継承する意味でも、観光資源を失わないためにも。北海道の歴史を伝えるものを残し、次世代につなぐことは、我々に課された使命ではないだろうか。
作家・エッセイストの千石涼太郎さんのエッセイ
救急救命士で救急医療に従事したのち、カイロプラクティックを学び、開院した経緯をもつ院長が綴る健康コラム
犬との暮らしを綴ったほのぼのコラム
雑誌『プランドゥリフォーム』
バックナンバーの紹介・ご購入