リフォーム・リノベーション専門雑誌「プランドゥリフォーム」に掲載中のコラムのウェブ版です。
昭和四十年代の我が家には、長男の仕事がいくつかあった。父親の靴の靴磨 きに、包丁研ぎ、柱時計のゼンマイ回し。蛍光灯や電球の取り替え……。 わたしが小学校にあがるまで父親がやっていたこれらの仕事は、父親の代理である長男がやる仕事になったのだ。 学年が上がると長男としての仕事は徐々に増えていき、さぼると容赦なく叱られた。
正月のおせち料理に出てくる鯛のお頭付き。にらみ鯛の役目を終えたとき、身をほぐす係は当然のごとくわたし。 その流れで、みんなで食べるような大きな焼き魚が出てくれば、わたしが骨を取り、母に最初に取り分け、次に父、姉の順。自分は最後という無言のルールもできあがった。
子供の頃は、これがどこの家でもやっている当然のことだと思っていたのだが、世の中には、魚の骨まで母親がとってくれる家庭もあるらしいではないか! そんな現実を知ったわたしは、うらやましいと思ったり、驚いたりはせず、笑った。「赤ん坊か!」と。
我が家は亭主関白を通り越して親父独裁一家。男尊女卑が激しい環境ではあったのだが、同時に父は長男のわたしには、母親や姉を守れ!という強い使命を強要していた。 厨房には立たせないが、食卓に上がったものを、わたしが世話をすることは、日常的なことで、玄関や外回りのことも男の仕事だった。 小学校高学年の姉が塾帰りに夜道を歩いて帰る日は、帰り時間を計算し、わたしが真っ暗な中を迎えに行く。姉が友達と別れる前に、姉の元へ走るのだ。 いま思えば小さな子供がボディガードになり得るとは思えないが、当時のわたしにとっては暗闇や暴漢など、父親の怖さと比べれば、大したことではなく、ただ従うのみだった。
そんな父親だが、こと食べ物には目がなく、美味しいものを独占しようとはしない人だった。女房子供を優先し、食べさせてくれた。 父はよく自分のお小遣いでおいしいものを買ってきた。 仕事で街に出かけると、小樽や札幌の市場によって毛ガニを買ってきたものだ。 当時はいまほど高級なものでもなく、ロールケーキでも買うくらいの感覚だったと思うのだが、それでもカニがある日は特別感があった。
何パイかカニがあるときは、ジンギスカンを食べるときのように、新聞紙を敷き、まな板と出刃包丁をセット。母が切れ目をいれ、各々がカニを食べるのだが、手がふさがっている母の分の身を脚から出すのは、わたしの仕事。「わたしのはいいから食べなさい」 という母の言葉に甘えたいところだが、それはまだ早い。二、三本分を出し終わらないで食べれば、楽しいカニの時間は即終了。父による怒鳴りっぱなしの説教タイムが数時間は続くことになる。
つまり、子どもとて、うっかり気を抜くわけにはいかないのだ。 とはいえ、このルーティンをこなせば、あとはカニが父のご機嫌をとってくれる。
「うまいな。やっぱりカニは毛ガニが一番うまい」 当時、タラバやズワイはあまり食べたことがなかったわたしには、その差がさっぱりわからなかったが、毛ガニがうまいことだけはよくわかった。
カニを食べると無口になるといわれるが、このときばかりは、機関銃と呼ばれていたおしゃべりな姉もおとなしい。カニスプーンなど使わない我が家では、脚先のとがったところで細い部分をかき出して食べた。
カニは太い脚肉がおいしいが、醍醐味はなんといってもミソだ。もちろん、カニミソは脳ミソではない。中腸腺といわれる肝臓と膵臓の機能を併せ持つような内臓で、なんともいえない旨味がある。
毛ガニのミソはズワイガニや上海ガニのミソほど濃さや癖がなく、やさしくふんわりとした甘味が心地よい。
ミソは父の酒のつまみなのだが、子供たちにも分け前はあり、競って食べた。 そのあと父はお燗した酒を甲羅に流し込み、ググっとやるわけだが、そのお燗も高学年になったときは、わたしの仕事だった。 平成の世では考えられないことだが、昭和とはそんな時代だったのだ。
「ズワイもうまいけど、やっぱり俺は北海道の毛ガニだなあ。酒はこっちにはかなわないけど」 カウンターの向こうから、「お客さん、毛ガニが好きですか」と声がかかると、そりゃあもう止まらない。「生まれが小樽なもんでね。いくら越前ガニがおいしくても、ふるさとの味というのには、かなわないんですよ」……にはじまり、お国自慢タイム。
しかし、ここまで毛ガニ推しをしていながら、東京にお土産に買う場合は、毛ガニを選ぶことは少ない。 北海道をよく知らない人なら、ほぼ花咲ガニを選ぶ。理由は簡単。値段と見た目のインパクトと、珍しさだ。 タラバガニやズワイガニは東京でも珍しくない。毛ガニもそこそこお金を出せば食べられる。しかし花咲ガニはまずお目にかかれない。その上、毛ガニと同じ値段で大きさがあり、ごついフォルムは注目の的。 というわけで、花咲ガニを買っていくのだが、花咲ガニは甲羅が固く、毛ガニ以上に食べにくいので、カニ好きでない 人には向かないようである。
☆ 毛ガニは海明けがうまい。
しかし、高価なので庶民には敷居が高い。昔のように気楽に食卓で毛ガニを食べるなら、状態のいい冷凍物が狙い目。 スーパーで安い日を狙って、重さを比べてゲット! 小市民のつかの間の幸せである。
両親が他界し、いまや父に叱られるわけでもないのだが、カニは基本、家内にもまかせず、自分で下ごしらえする。身を取りやすくしてから、できるだけゆっくり……と。いっても、どうしても早食いになり、無口になってしまうのだが。 カニミソをつまみ、酒を飲み、父がしていたように燗酒を注ぐ。そして思うのだ。息子や娘が燗してくれたら、さぞうまいだろうなあと。
「池の水を全部抜く」という人気番組がある。好き嫌いはあるだろうが、この番組を見ることで、人は生命の強さを感じるとともに、改めて人間の身勝手さ、罪深さを感じるのではないかと思っている。
「都会のど真ん中の池に、絶滅危惧種の魚や両生類などの生物が生き残っているのを見るとうれしくなるが、逆にいるはずのない外来種が続々と捕獲されるのを見ると、暗い気持ちになる。
ましてや池の中から自転車や冷蔵庫といった廃棄物が出てくると、怒りで血圧が上がってしまいそうになる。なにをどうしたら、そんなものが出てくるのか?と、驚くものもある。
まったく困ったものだが、ゴミがすくえる池ならまだましなのだ。これが海なら、海の水を全部抜いて掃除をすることなどできるわけがない。いま先進国の間では、マイクロプラスチック問題が叫ばれているが、日本社会ではまだ動きが鈍い。この汚染を止めなければ、魚やカニなど人間が食べるものが汚染され、まわりまわって人間も汚染されるのだ。
レジ袋やストロー問題を含め、いまできることはなにか。後世のためにも一緒に考えていただきたいと思う。建設業界にもメーカー、工務店、それぞれにできることがあるはず。企業努力をお願いしたい。
作家・エッセイストの千石涼太郎さんのエッセイ
救急救命士で救急医療に従事したのち、カイロプラクティックを学び、開院した経緯をもつ院長が綴る健康コラム
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